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城と西洋建築
本日のメインは、青森県弘前。かつては津軽氏の城下町で、現在も城を中心に武家屋敷が残っている。城内で現存するのは、三層の天守閣と、櫓だけでこじんまりとした印象はあるが、それでもよく整っている感じ。天守閣内は資料館になっていて、往時の品物が並べられている。いつも思うが、将来いくら偉くなっても、あんなに狭い駕篭の中に押し込めるのだけは、勘弁して欲しい。 駅と城の間あたりには、教会など明治期の西洋建築が点在。ただ、数ヶ所訪れたうちの2ヶ所の建物が、鉄骨の足場で周りを固められており、もろに引きの弱さを露呈してしまった。無事見られた建築物から推察するに、足場と、立ち入り禁止のコーンを取っ払えば、重厚な趣あふれるものであるはず。 この日テンションを高揚させたのは、弘前の素晴らしい町並みに加えて、中学生の遠足と鉢合わせた事。グループ行動してるらしく、至る所で地図を見ながら歩く女子中学生集団が。明らかに以前すれ違ってるグループと他の場所でまたすれ違ったりするのは、ちょっと気まずいような、恥ずかしいような、自意識過剰気味。 本日の温泉 温泉を選ぶ上でのキーポイントは、駅からの交通、営業時間、見た目(明らかに昭和の銭湯みたいのはちょっと)の3つ。泉質とかろ過方式がどうのとか知ったことか。湯自体はバスクリンでもなんでもいいんである。 朝は青森県浅虫温泉「ゆ~さ浅虫」。道の駅内にある温泉で朝は7時からやっている。場所は、東北本線浅虫温泉駅を出てすぐ。迷いようが無い。完璧。さらに陸奥湾を望む浴場からの眺めは絶好である。唯一難点を挙げるなら、貸しタオル、シャンプー、ボディーソープのいずれも無い点くらい。こんぐらいは、目をつぶろう。 夜はマース盛岡。盛岡駅からバスに乗らなきゃいけないのがちょっと微妙。でも片道220円くらいだし、許容範囲内。深夜1時まで入浴できる上に、いざとなれば、仮眠室で夜も明かせるのは激しく評価できる。
往年の名投手と語らう
北海道に移って、4年半。道内ナンバーツーでありながら、いまだ見ぬ都市、旭川。旅の始まりはここからである。いきなり、やや残念だったのは、旭川競馬場がナイター開催だったこと。市街地から離れた所にあるだけに、この後の予定を考えると厳しい。ここは次の機会に譲るとして、別の場所に向かうことにする。 やって来たのは、旭川スタルヒン球場。旭川ゆかりの有名人といえば、スタルヒン。だからと言って、別に彼にものすごい思い入れとかあるはずもなく、球場前の銅像の説明を見るまで、知っていることはほとんど無いに等しかった。 球場の名前になるくらいだから、当然何らかのかたちで旭川に関わっていたのは間違いないのだが、ロシアから亡命し、旧制小学校、中学校を卒業したのがこの地だったとは。いやはや全く知らなかった。通産303勝を積み重ねた土台がここにある。 当の球場の方は、外から見た感じでは普通の地方球場である。当日は、何の試合も行われてなくて閑散。周りは公園ぽくなっているのだが、何しろ人がいない。なんか怒られそうな気もするので退散することに。
最近やけにいやらしいCMが流れている。兄妹愛とかいやらしいとか言うと、そういう方面の話みたいだが、そういう話じゃない。日頃お世話になりっぱなしの Microsoft XP のテレビCMである。
パソコンを使って小さい頃から字を学んでました、とか言う少女が、Microsoft XP をばりばり使いこなして絵本を描いている。内容は、ゾウさんとカエルさんの話で、これがまたかわいらしくない。カエルさんなんかとってもグロテスク。あんな少女が描いたとは思えない。 で、絵をいっぱい入れました、ってことで最後にこう言い放つのである。「お兄ちゃんが読めない字があったら、かわいそうでしょ。」 こんなかわいくない妹はいらない。自分がちょっと早く字が読めるからって、なんていう言い草だろうか。人には、個人差ってものがある。初めて歩けるようになる年も違えば、言葉を喋るようになる年だって違う。字が読めるようになる年だって、違って当然だろう。 「かわいそうでしょ」なんてニヤニヤしながら言っちゃダメだ。お兄ちゃん傷つくぞ。 大の大人にこんなことを思わせるくらいだから、この子役ってそこそこ演技が上手いんだろうなあ、という感想なんかどうでもいいくらい、この一言は重い。なんか、こう、居心地が悪くなるくらいのいやらしさだ。 何でこんなに気持ち悪いのかと考えてみたら、これってリアル世界の自分の兄弟関係がCMに投影されているのが原因なんじゃないか。ひょっとしたら、弟も、影では、自分をバカにしてたりして。「お兄ちゃん、童貞だから、かわいそうでしょ。」被害妄想であることを祈る。
今夜はテレビ界の一大イベント、フジの24時間テレビ(実際には25時間)がある。日テレの24時間に先駆け、バラエティのフジの威信をかけて放送される番組だ。個人的には、マラソン、チャリティー、でがつがつ押してくる日テレの方は見る気にならないが、少なくとも面白くしようという意気込みは感じられるフジは、まあ割りと好きだ。
24時間テレビに対する視聴者の反応は様々だ。全くの無関心層から、ライトなウォッチャー、そして最初から最後までくまなく参戦するヘビーウォッチャー。最後にいたっては、もう「参戦」という単語がぴったりだ。無関心層にとっては、眼中にない、もしくは普段見てる番組をつぶす邪魔者でしかない怪物を、己の好奇心を最大限に引きだして、すみからすみまで嘗め尽くすのである。 そんなヘビーウォッチャーの生態も、近年のメディア変革の波により変わることは間違いない。番組開始から終了まで寝ずに見続ける。1日分のインスタント食品を常備し、CM中のトイレ以外休憩なし。自分はこの番組を見るために生きてるんだ。旧来からある典型的なスタイルだ。 それに対して、ハードディスクレコーダーを駆使。5倍モードでも10時間やそこらしか録れないVHSを圧倒するデータ量を生かし、番組全編を録画。後から、小出し小出しにして番組を見るというスマートなスタイル。時代の寵児である。 狂信的なヘビーウォッチャーでもなく、かといって全くの無関心でもいられず、祭りっぽいことは取り敢えず行ってみたい、という気質である自分には関係の無いことだが、全国のヘビーな皆さんはあまり無理せず、楽しんで下さい。自分は、適当にザッピングしつつ見よう。面白いコーナーに当たるといいな。
以前ここで拙作をさらしたNumeriのオナッセイ大賞。ついにノミネート作品が発表され、読者投票が行われている。締め切りは27日までらしいので、まだ投票していない方は是非。
ノミネート作品は全部読んだけど、あんな文を下手に応募しないでよかった。第2回に向けて今度こそもう少しましなのを書こう。 ちなみに、僕はNo5「闇夜で雪は」に投票しました。面白さと清清しさが心を吹き抜ける名文。 あと、これにはちょっと感動。 ![]()
最近、ふと気になっているのが、トイレに行った後手を洗わない人が、意外に多いんじゃないかということだ。
もちろん、正確な統計を取ったわけじゃない。いつも使うトイレというのはほぼ決まってるから、常に手を洗わない人をダブってカウントしている可能性もかなり高い。俺と手を洗わない一定の人との排尿周期が、たまたま被ってるのかも知れない。 だから、人数的には実感よりかなり少ないと思うが、1人でも手を洗わない人がいるというのは問題だろう。めちゃくちゃ気になる。その手で何するんだ。 第一、手を洗わない理由がよく分からない。洗う→乾かすもしくは拭くという過程が面倒くさい、用を足した後の手が汚いという認識がない、などが考えられるが、昔、妙に納得してしまった理由がある。 確か、松本人志がテレビでネタとしてしゃべってたような気がするんだが、手を洗うなら、用を足した直後に洗うべきで、汚い手でパンツをあげた後に洗ってもすでに手遅れ、というものである。その時は、ネタにも関わらず、聞いていて目からうろこが落ちた。大げさでなく、本当に膝をたたくかと思った。 この理論に則るなら、手洗い場は便器のすぐ横にとりつけるべきだ。でも、ブースの1個1個に洗い場を付けるわけにもいくまい。TOTOはいいかも知れないが、トイレの所有者側は大損害だ。ここは、被害をパンツだけに食い止めて、大人しく手を洗うのが人として従うべき道だろう。 面倒で手を洗わないという人も、ぜひ手を洗う習慣を付けていただきたい。こういうのは慣れが重要だ。あと、認識不足の方には激しく啓蒙したい。どう考えても、その手は汚いよ。 そそくさと手洗い場を素通りする人を見る度に、アルコールを噴霧してやりたい衝動にかられる。1人は、完全に噴霧対象ブラックリスト入り。
一人暮らし(食事なし)を始めてから三ヶ月にして、いよいよ食生活の乱れが深刻化している。
4月に、食事つきの下宿を脱し、自炊生活をはじめるに当たって、密かにあるガイドラインを策定した。それが、4月はコンビニ使用禁止というもので、じゃあ外食はどうなのかというと、これはオッケーと大甘である。食い放題だけは捨てられない。 結果、4月は見事に自炊と外食のコラボで乗り切ることに成功した。まあ、1ヶ月目にしてもう厨房に入らず状態はマズ過ぎる。で、5月からは、一応その禁も解け、適度に手を抜きながらうまいこと折り合いを付けていこう、ということになった。 先日は雨が降っていて買い物が面倒、ということもあって、久しぶりに1日2食をコンビニ飯で過ごした。一人暮らしの男子学生としては健全極まりないし、1食分はちゃんとつくってるんだから上出来。 そこで改めて感慨にふけることになったんだが、コンビニのおにぎりというのは美味である。いまだかつて日本人の心、米をこんなにうまく調理した例があるか。たまに、具が真ん中にしか入ってなくて、米ゾーンが多いことにクレームをつける人がいるが、何を言う、美味いのは米である。 釜の中でいきり立つ米の一粒一粒。そこに、調味料、保存料をくわえて攪拌し、型でプレス。三角形のフォルムが形成された米塊は、ベルトコンベアに乗って流れてゆき、アームで具を押し込められ、フィルム、のり、フィルムの順で梱包されて食用に供されるのである。 そこにあるのは、一点の妥協も許さない職人の技だ。ちょっと形がいびつなのがかえっていいよね、とか言ってんじゃないぞと。そんじょそこらの素人には真似できない、この機械特有の画一化が、味保守派の心をつかんでいる。 そう言えば、マックもいつ食っても安心、均一な味がして、当然大好物だ。コンビニの次はマックとばかりに、翌日はてりやきチキンフィレオのセットを昼、夜と2回食った。コンビネーションまで全く同じで、いい加減飽きてもよさそうだが、むしろ夜の方が、舌になじんで美味なのは意外だった。 画一化された味は、いつ何回食ってもうまい。 あと、なんとなくマックの宣伝をしとくと、てりやきチキンフィレオは、10年に一度の逸材。期間中にあと10食くらいは食いそう。
奈良・騒音事件の河原被告の初公判が開かれた。そのニュースでは、彼女の奇行をとらえたあのVTRが流されている。朝食をとりながらテレビを見ていて、また爆笑してしまった。被害にあわれた方には大変申し訳ないが、バカみたいに爆笑。どうやらツボである。
いったい何が面白いのかというと、塩爺がキ○ガイと連呼した風貌、コミカルな動きもさることながら、一度聞いたら忘れられないリズミカルなフレーズに集約される。「引越し、引越し、さっさと引越し、しばくぞ!」ってあれである。 見事なまでに、三三七拍子で整えられたセリフは、聞く者の気持ちを喚起するものがある。昔から日本人は、五七五や三三七といったリズムを大事にした。 七五調のリズムというのは、なんとなく風流な趣を持つものだし、「お父さん、寝タバコヤバイ、火事のもと」みたいに、すんなり覚えやすいという特徴がある。三三七拍子も運動会の応援合戦のように、テンションを高める上で特上のリズムだ。 この三三七をさらに生かしきる工夫が、このセリフには込められている。まず、最初の「引越し」リピートによって、三三というつながりを意識させる。そこから「さっさと」の最初の「さ」と2つ目の「さ」にアクセントをおくことによって、うまく2音節にまとめあげ、3回目の「引越し」へとつなぐ。 で、この最後の部分が肝なんである。「しばくぞ!」というドスのきいた4文字を最後の2音節におくことによって、非常に小気味いい締めとなっている。相手を威圧するねばりっこくていやらしい言い方を捨て、歯切れの良いスタッカート。言うなら「タンタンタンタンタン・ドン!ドン!」って感じだ。 全体として、三三七拍子のお手本みたいな(あくまでリズムの話。やってる事は言語道断。)ことになってるのだ。これは笑う。笑わずにいられるか。笑いはテンポが命なんだ。 と、傍観者としてはつい笑ってしまうものの、実際に目の前で言われたら気持ちいいはずがない。ああいうのは、テープに吹き込んで、例のデッキでひとり小音量で聞いてニヤリとするか、「ちょっと奥さん、面白いフレーズ思いついちゃったわよ!」と井戸端会議のネタにするぐらいがいいんじゃないか。
伝説のテキストサイトNumeriで募集していた美しいオナッセイ大賞。こりゃ応募するっきゃない、という意気込みで書いてはみたものの、これがめちゃくちゃ難しい。それ以前から、ちょこちょこ周りに話していたことを軽くいじってみたんだが、ありきたりな着眼点と凡庸な文章、絶対的なつまらなさのためボツ。俺の乏しい実力では無理と早々に諦め、お蔵入りさせてしまった。恥ずかしくて、書いたことすら言えなかった。
でも、せっかく書いたのになんかもったいないな、という下心もあり、少し恥ずかしさも薄れてきたんで、たいして人も見てないところでこそっと公開しようということに相成った。こういう文章は書くもんじゃない。 平和の虹 時は西暦1915年。前年、あるセルビア人男性の発射した精子が、オーストリア帝位継承者の妃に飛び散るという事件が起こった。これをきっかけに、第1次オナニー大戦が勃発。ヨーロッパ全土は、人類史上未曾有の大戦乱に巻き込まれたのであった。連日のように続く艦砲射精、掃討射精作戦。その勢いはとどまるところを知らず、開戦から1年が経過しても、人々は阿鼻叫喚の中、いつ終わるとも知れぬ恐怖と戦い続けていた。 フランスももちろんその例にもれず、オナニーの語源たる威信をかけたドイツの猛攻にさらされ続けている。クレマンコーは、この事態を最も憂慮した政治家の一人であった。このままではフランスが、いや世界が危ない。クレマンコーが、平和への決意を新たにするとき、必ずスーツの内ポケットから取り出すのが、1枚の古ぼけた写真であった。 そこには、無邪気に微笑むクレマンコーと兄の姿がある。クレマンコーの兄は、勇敢で、人望厚く、陰茎太く、常にクレマンコーの尊敬の対象となっていた。オナニーを教えてくれたのも、もちろんこの兄である。 大戦が始まると、兄はすぐに戦地へと赴いた。正義感の強い兄のこと。どんなに止めたって、国のためになら、いくらでもチンコをしごく。彼のそんな性格を知っていたクレマンコーは、一抹の不安を抱きながらも、黙って、熱い抱擁を交わし戦地へと送り出したのである。 そんな彼の最期を戦地からの手紙で知ったのは、あれからわずか2ヵ月後のことであった。当時、ドイツ軍は北フランスに侵入。パリの東に位置するマルヌでドイツ軍対フランス軍の戦闘が起こった。そこに、兄も送り込まれていた。クレマンコーが知り得たのは、そこで兄が自らの命を顧みず最前線で精子を放出し続けたこと、容赦ない精子の雨の一滴に当たり、ついに力尽きたこと、彼の勇猛果敢な活躍で、ドイツ軍の侵入を食い止められた、ということだけだった。 兄の死を無駄には出来ない。オナニーによって、こんなにもたくさんの人が苦しみ、そして命を落としている。こんな現状をほっとくわけにはいかない。だが、この戦争を終結に導くためにいったい何をしたらいいのか。クレマンコーは、日々思い悩み三日三晩頭を抱え続けることもザラであった。 苦渋に満ちた日々を送るクレマンコーに、ある小さな考えが芽生えたのは、兄の死から実に3年後であった。オナニーは本来、平和の象徴ともいうべき存在なはずだ。日々、オナニーにふける人々の顔は、あんなに輝きに満ちていたではないか。戦争が始まってからというもの、オナニーは人を苦しめる手段としてのみ用いられ、享楽としてのオナニーは姿を消してしまった。今こそ、平和なオナニーを全世界にアピールして、本来の姿を取り戻そう。 意気揚々と考えをめぐらすクレマンコーだったが、しばらくするとまたその顔に陰りが見え始めた。確かに、この考えはすばらしい。だが、このままでは単なる理想論だ。いったいこれをどうやって具体化すればいいのか。再び、ふさぎこむクレマンコーの脳裏に兄の姿が蘇ってきた。 それはまだクレマンコーがオナニーを覚えたてのころ、兄が語ったある話だった。「お兄ちゃんはな、オナニーをする時タオルにチンコをこすりつけるんだ。ほら、こうやって。気持ちいいだろ?お兄ちゃんだけで楽しんでるのももったいないから、お前に教えてやったんだ。でもな、それだけじゃないぞ。お兄ちゃんは大きくなったら、世界中を旅して、気持ちいいオナニーが出来なくて恵まれない子供たちに、この方法を教えてやるんだ。みんなで仲良く幸せなオナニーが出来る世の中を作るんだ。」 そう、世界中には、ありとあらゆるオナニー法がある。そのバリエーションの多さがゆえに、世界にはまだ見ぬオナニーがあふれているはずだ。なら、たくさんのオナニーを1ヶ所に集め、博覧会を開いたらどうか。そこには、世界中から好奇心あふれる人々が集まり、異文化に触れ、目を輝かせる。改めてオナニーの奥深さを知り、そして相手国のオナニーを尊重する。世界中はオナニーであふれ、人々の笑顔であふれる。そうだ、これしかない。翌日からは人が変わったような明るい顔で、各国オナニー大使に誘致を申し込むクレマンコーの姿が見られた。 フランス・パリで講和会議が開かれ、オナニー万国博覧会の開催と、第1次オナニー大戦の終結が決定したのはその翌年のことである。 クレマンコーは、内ポケットから1枚の写真を取り出す。その写真は、40年もの月日を経て劣化が激しく、かろうじて人物の顔が特定できるほどである。いったいこの写真を見るのは何度目になるんだろうか。そんなことを考えながら、再びポケットに写真を戻すと、クレマンコーは大きなため息をついた。 最近、夢で兄の姿を見ることが多い。自分もそろそろお招きが近いんじゃないか。兄に会える日もそう遠くはない。いやいや、とそんな考えを振り払う。多いときには1日3度もオナニーできる。タオルは20枚常備している。まだ、遣り残したことは多い。 急にぱっと周りが闇に包まれた。「Ladies and gentlemen ! 長らくおまたせいたしました。本日の主役に、ご挨拶とご講演をいただきたいと思います。それでは、1950年度ノーベル平和賞受賞ジャン・クレマンコー氏です!!どうぞ!!」
開設からたった4ヶ月で、すでに瀕死状態の日常生活的TOPICS。言い訳はいくらでも思い浮かぶが、一番でかいのは、ここに書くくらいなら先にしゃべっちゃうよ、ってことだと思う。というか、この話自体以前誰かにしたことがある。
そもそも、自分、トークの話題の貧困さでは、右に出るものがない。ただでさえ少ない話題をブログに吸い取られてしまったら、普段しゃべることがない。これじゃ、日常生活に差し支える。 ということで、ここでは普通にしゃべってたらタルい感じのことを、たまに書くくらいにする。 メディア論争 newspaper or internet 実験しに来てるのか、インターネットしに来てるのか、と問われれば、間違いなくインターネットをしに来ていると答えるほど、研究室ではインターネットに入り浸りだ。とりあえず、朝登校したらパソコンを立ち上げてネット。昼もネット。夕方くらいになると、あんまり見るとこもないのに、惰性でネット。長時間やり過ぎると目が疲れてくるんで、そんな時には実験をやって目を休めている。いつでもバケーション、研究室ライフ。 もうネットさえあれば、他に何にもいらないんだが、どう逆立ちしても一生ネットが追いつけないんじゃないか、と思える分野が新聞である。こればかりは逆転は難しい。明らかにネット贔屓なこの目から見ても、逆転は難しい。 よく新聞の特徴として、一覧性ということが言われる。ぱっと紙面もしくは画面を一瞥するだけで、目にとびこんでくる情報。この情報取得における圧倒的な差が、この点における新聞優位を決定しているというのだ。そう、まさに言いたいのはこれ。 例えば、家でのんびりと寛いでいる時にテレビを見たくなったとする。時間がはっきり分かる番組しか見ない、という非テレビっ子はいいかも知れないが、そうじゃない人はテレビ欄を欲することになる。 インターネット派は、いそいそとプロバイダに接続し、サイトに行き、視聴地域を選んで、時間を選んで、目的の画面までマウスのダイヤルをクイクイッ、ってこんな面倒くさいことがやってられるか。新聞なら手にとってバサッ、終了。 かく言う自分も、さっき Yahoo TV を見たばかりなんで、あんまり強いことも言えないが、同時に2つの方法が選べる状態になっていたら、多くの人が新聞を選ぶんじゃないか。どう考えてもそっちの方が楽な上に、また違う時間を見たくなった時とかに、クイクイッて作業をしなくていい分便利至極である。 あと、さっきの一覧性ということに関して言えば、記事の重要度の把握ということがある。インターネットのニュースサイトっていうのは、普通見出しが同じようなフォントでバカみたいに並んでいて、どの記事も同じように見える。 そこで、革新的ニュースサイトが現れ、これからはインターネットが新聞を超える時代とか言い出して、フォントを弄る。トップ記事は、フォントサイズ36、次は28、こいつは18。そんなサイト二度と行かない。ネットの特性、というか画面で文字を読むということを全く考えていない、無謀極まりない行為だ。実際、そんなことは誰もやらないだろうが、この当たりが良くも悪くもネットの臨界点である。 その点、新聞は無理なく見出しの大きさ、構成を変えることで、記事に変化をもたせている。もちろん、編集は新聞社がそれぞれ独自に行うことだから、客観的な重要度は入り込む余地がなく、ある意味新聞社に読まされているともいえるわけだ。でも、それも新聞の味。「アメリカで原油価格最高値。ガソリン価格も再上昇」とか一面にでかい見出しが載ってる東スポとか読みたくない。男ならプロレスだ。 現在、新聞もとってなければ、インターネットもつながらない我が家だが、就職したらダブル導入を目論んでいる。もし、そこまで経済的に余裕がなかったら、まあ、迷うことなくインターネット。ここまで賛美したのに、すまん新聞。ネットは新聞以外の機能も包含してるからしょうがない。新聞もネットも最高。 < 前のページ次のページ >
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